今学期は、わたしの怠惰な性格が暴露されたと感じています。わたしの怠惰な性格は、興味があることに対しては熱心に取り組むことができても、興味がないことには熱心に取り組むことができません。
訓練一年生の時は、すべてのことが新鮮だったこともあり、あらゆることに興味を持って取り組むことができました。しかし、二年目になると新鮮さがなくなり、「これくらいでいいか」という思いを持つことが多くありました。その結果、今学期はキリストを享受することがとても難しかったです。
主との交わりの中で、この怠惰な性格の源は、高ぶりであることを照らされました。自分はすでに知っている、これくらいで十分だ、という高ぶりが主の享受を妨げていたことを見ました。
啓示録第3章17節には、「あなたは、自分は富んでいる。富めるものとなった、何の乏しいこともないと言っているが、実は自分が悩んでいて、みじめで、貧しくて、裸であることを知らないからである」とあります。
ラオデキヤにある召会は、教理的な知識を誇り、自分は富んでいると思っていました。しかし実際には、命において貧しいことを知りませんでした。同様にわたしも、訓練を通して教理的な知識は増し加わりましたが、実際には命における成長に乏しく、貧しい状態にあることを見せられました。
続く18節には「あなたが富むために、火で精錬された金を買いなさい. またあなたがまとって裸の恥を現さないために、白い衣を買いなさい.また見えるようになるために、目に塗る目薬を買いなさい」とあります。これは、生ぬるい状態から救われるためには、代価を払う必要があることを示しています。
わたしは代価を払うとは、何か大きなことをすることだと思っていました。しかし今学期を通して、代価を払うとは、日ごとの小さな事柄の中で主を選び、自分自身を主にささげることであることを学びました。
例えば、五時半に起き、三分間主の御名を呼ぶ時、自分は立ち上がらず、布団の中で主の御名を呼ぶことがありました。立ち上がるか立ち上がらないかは小さなことだと思っていました。しかし、こうした小さな事柄の中でさえ、自分を否み、主を選んで代価を払うことによって、キリストを新鮮に享受することができることを経験しました。
ルカ16:10はいいます、「最も小さいことに忠信な者は、多くのことにも忠信である」。
来期は最後の学期となるので、もう一度、新たに自分自身をささげ、小さいことに忠信な者となりたいです。
21期生 Y兄弟