あらゆる問題を問題とするのは命の不足にあることを実感しました。神聖な命はすべての問題を呑み尽くします。しかし、命を持っていても、十分でしょうか。ある時は霊的状態が良いので超越した地位から、環境を塵芥と勘定しますが、沈んでいる時は大きくダメージを受けてしまっていました。

キリストの命の中で王として支配するために、さらにキリストを命として経験し増し加える必要があります。キリストを文字として、教理として取るのではなく、命、また実際として経験します。そのために命の霊の神聖で奥義的な領域にとどまる必要があります。常に霊の中に留まるなら、そこには光があり、光の中に留まるなら照らしがあり、照らしに従うなら、十字架があります。照らされたことを十字架につけることによって、主の血の清めにあずかり、血の清めによって、彼の油塗りにあずかります。そして、油塗りにあずかるならさらに霊の中に留まります。これは循環し、この中にいればますます霊の中で光を受け、油塗りにあずかります。

今学期も試みがありました。4月には感電で検査入院することになったり、7月に徳島から戻ってきたときには微熱と頭痛が続いたり、また7月中旬には足を怪我して、歩くのに不自由になったり、環境が多くありました。なぜこのようなことが起こるのかと嘆いたりもしましたが、そのような環境の中でも主はわたしたちの命、命の供給であることに感謝します。

ローマ8:28「また神を愛する者、すなわち、彼の目的にしたがって召されている者たちには、すべてが共に働いて益となることを、わたしたちは知っています」。

ローマ8:29「なぜなら、神はあらかじめ知っておられた者たちを、御子のかたちに同形化しようと、あらかじめ定められたからです.それは、御子が多くの兄弟たちの間で長子となるためです」。

環境がなければ渇望がない、不足を感じないゆえに、主は環境を通して、いつもとは違った特別な分の祈りと交わりを持たせます。どのような環境でも益になります。益になるとは外側の状況がよくなることを指すのではありません。内側でキリストの同形化の働きが進むのに益があるということです。

なぜ自分がこんなことにという苦しみだけがあるのではなく、彼と交わることで特別な分があります。入院してる時、同室のおばあちゃんがずっと叫んで寝られない時も、当時は苦しみのなかで、主に祈り求めることしかできませんでしたが、そのような経験が甘い記憶としてわたしのうちに蓄えられています。主はこのような実際である方であることを感謝します。さらに彼を日毎に命、実際、源として経験することができますように。

21期生 W兄弟