今学期の訓練を通して、わたしは自分の内にある天然の熱心さが主によって照らされ、取り扱われ、命において造り変えられるという貴重な経験をしました。
訓練が始まった当初、わたしの内側には訓練に対する強い熱意があり、それによってクラスにおいても福音においても、あらゆることにおいて前進したいという熱い思いがありました。しかし、団体生活の中でその熱意にしたがって行動すると、他の肢体と調和を取ることが困難であることに気づきました。
その時のわたしは、熱心であること自体は良いことだと考えており、これが自分の天然の性情から出ているとは思っていませんでした。しかし、主との交わりの中で、この熱心さが霊からではなく、自分の古い人から出ていることが、徐々に明らかにされました。
このことが明確に暴露されたのは、神のエコノミーのクラスで「ヤコブの手紙の結晶の学び」を通してでした。使徒行伝で見られるようにヤコブはとても熱心で敬虔であり、聖徒たちの間では敬われる存在でした。しかしヤコブの手紙には、多くの混合が見られます。それは、旧契約と新契約の混合、恵みと律法の混合、古い天然の人と新しく再生された人の混合です。彼の手紙は、クリスチャンの実行上の完成を重視しており、そこには 三一の神、 すべてを含むキリスト、 究極的に完成されたその霊、 神聖な三一の分与 といった神のエコノミーに関する要素は、ほとんど見られませんでした。つまり、ヤコブの焦点は、律法を守ることによって敬虔な生活をすることにあり、彼は神のエコノミーのビジョンに対して曖昧でした。
しかし、神の永遠のエコノミーは、自己を改善し、敬虔な生活をすることではありません。神の永遠のエコノミーは、神聖な三一の分与の事柄です。うなわち、神の永遠のエコノミーにおける真の完成とは、 三一の神、 すべてを含むキリスト、 究極的に完成されたその霊、 神聖な命、 十字架と復活の力 によって、 神聖な命と神聖な性質を持つ団体の神・人を生み出すこと です。これは自己の努力や改善によって完成されるものではなく、キリストを生きることによって、また神聖な三一の分与によってのみ成し遂げられるものです。
このビジョンを見たとき、わたしは、自己、天然の人、古い人には神のエコノミーにおいて地位がないことを知りました。さらに、わたしの天然の熱心さは、神の目的を成就するどころか、からだの「一」を破壊するものであることが示されました。
その後、わたしは主の前に出て、罪を告白し、悔い改め、日々霊の中で主との交わりを持ちました。すると、この天然の熱心さが徐々に対処されていくのを感じました。そして今では、以前のように他の肢体と組み合わされることが困難だと感じることはなくなりました。
環境自体は変わっていませんが、自分と異なる性質を持つ人を受け入れられるようになったと感じます。これによって、その霊の一を保ち、一つ思いで前進することができるようになってきています。
コリント人への第二の手紙第3章18節はいいます、
しかし、わたしたちはみな、主の栄光をおおいのない顔をもって、鏡のように見つめ、そして反映して、栄光から栄光へ、主と同じかたちへと徐々に造り変えられていきますが、それはまさに主なる霊からです。(Ⅱコリント3:18)
神の永遠のエコノミーの成就は、わたしたちの力によるのではありません。わたしたちができることは、日々主に開き、三一の神の神聖な分与を受けることです。これからも、この神聖な要素によって、絶えず造り変えられる経験をしていきたいと願います。
21期生 Y兄弟