主を賛美します。わたしはあなたたちにぜひ分け与えたいいくつかの交わりがあります。わたしはクリスチャン生活の三つの面を取り扱いたいと思います。そして、これらの三つの事柄は全生涯あなたがたと共にあるべきです。だからあなたがたはこれらを覚えておく必要がありますが、暗記する必要はありません。ここにいるわたしの兄弟は結婚しています。彼はいつも自分が結婚しているということを覚えています。彼は「わたしは結婚しているのか?」とは尋ねません。また彼は父親です。彼は自分が何であるかについて暗記しません。彼の存在自体が彼に覚えさせています。ですから、これらの三つの事柄はあなたがたの全生涯のためです。いまや、自分を見てあなたがたはまだかなり若いでしょう。恐らく40歳を越えている人はいないでしょう。わたしたちは主がいつ来られるかはわかりません。あなたがたは50年間先があるかもしれません。ですから、三つの事柄はあなたの心に書き記される必要があります。そして、それらがあなたがたの存在の一部となるでしょう。そしてあなたがたの生活の一部となります。いいでしょう、一つ目の用意はいいですか?
【 第一の項目 】 ビジョンに従う – Obey the Vision –
ビジョンに従う。この思想は、使徒行伝26:19の、パウロの語りかけからきます。彼は言いました、「わたしは天のビジョンに背か」なかった。これが意味するのは彼は従順であったことです。ですから、彼はビジョンに従いました。わたしは、あなた方すべてが人生において適切に従うようにと訓練を受けたと信じています。しかし、あなたがたは別の種類の従順さが必要です。あなたがたはビジョンに従う必要があります。このことを考えてみてください。わたしたちは人に従うことについては知っています。そして、政府に従うことも知っています。わたしは政府に従っている人が車を運転しているのを見ました。彼の車には青い葉っぱのマークが付いていました。ある兄弟がわたしにこれが何であるかを説明してくれました。日本において、あなたがたが70歳以上になり、そして車を運転しているなら、すべての人に対して、年配者が運転していますよと警告しなければなりません。ですから、ドライバーは法律に従います。
しかし、どのようにしてあなたがたはビジョンに従うのでしょうか? あなたがたの未来すべてはあなたがたが最後までビジョンに従うかどうかによって決定づけられます。ビジョンに従うことは、ビジョンには権威があることを指し示します。わたしたちは、実は人の権威の下にあるわけではありません。わたしたちはビジョンの権威の下にいるのです。そのビジョンはわたしたちを制御します。そのビジョンはわたしたちを支配します。そのビジョンはわたしたちを方向づけます。わたしはあなたがたにビジョンが何を含んでいるかについて思い起こさせます。第一は、啓示です。すなわち覆いを取り去ることです。第二は光です。そしてそれに、視力が続きます。啓示、光、視力があるなら、あなたは素晴らしい光景を見ます。もし、一匹のありがテーブルの下を這っていても、わたしは、「わたしは一匹のありのビジョンをみた。」とは言わないでしょう。わたしはただ「わたしはありを見た」と言います。しかし、兄弟たちがわたしを富士山に連れて行った時、わたしはその素晴らしい光景をみたので、富士山のビジョンを見たと言うでしょう。
では、ビジョンの内容は何でしょうか? わたしはいくつかの事柄を述べます。それは、神聖なエコノミーのビジョンです。そして、それは、神が神聖な三一の中で、ご自身を彼の選ばれ贖われた民の中へと分与して、彼らの命また命の供給となり、キリストのからだを建造して、新エルサレムにおいて究極的に完成することです。これが、中心的なビジョンです。わたしはいくらかこのビジョンがあなたがたの中にあると信じます。しかし、そのビジョンは拡大する必要があります。あなたがたの中にあるビジョンだけが、あなたがたを方向づけます。そのビジョンはすべてを含むキリストのビジョンです。そのビジョンは手順を経て完成された三一の神のビジョンです。これはその霊のビジョンです。これはわたしたちの中で輝いていなければなりません。
わたしたちは、命の木と命の水の流れのビジョンが必要です。そして、わたしたちは命の木の原則によって生き、絶えずこの命の流れの中にとどまる必要があります。わたしは、1968年に初めて日本に来ました。そして、わたしは北のある都市を訪問しました。そしてわたしたちはとても親愛なる兄弟たちと出会いました。しかし、彼らはビジョンに従いませんでした。しかし、他の多くの忠信な兄弟たちはビジョンに従っています。そのビジョンとは、敵に完全に勝利したキリストのビジョンです。そのビジョンは、三一の神の有機体としてのキリストのからだのビジョンです。それは、地上全体に広がるまことのぶどうの木のビジョンです。それは、神聖なロマンスのビジョンです。わたしたちは、神聖なロマンスの中を生きています。それは、神の全体的な救いのビジョンです。それは、法理的な贖いのビジョンであり、有機的な救いのビジョンです。命の中で王として支配することのビジョンです。キリストのからだの一のビジョンです。新エルサレムのビジョンです。これらすべてはビジョンの構成体です。このビジョンに従いましょう。わたしはわたしたちが王国で会うことを望みます。もしわたしたちがお互い王国で出会う時、わたしたちはこう言うことができるでしょう、「神のあわれみによって、わたしたちは最後までこのビジョンに従いました」。
訓練卒業生たち、ビジョンに従いなさい。それにあなたがたがを制御させなさい。たとえ外側でとても多くの事柄がそのビジョンに矛盾しているとしても、ビジョンに従いなさい。そのビジョンが規制します。そのビジョンが支配します。ビジョンによって制御されている人を、誰も打ち負かすことはできません。ですから、あなたがたはこれらのいくつかの言葉を暗記しようとする必要はありません。しかし、これらを覚えているべきです。今まさに、その霊が書き記しています。彼はあなたの心に書き記しています。彼はわたしの心に書いています。わたしは彼が書いているのが見えます。従いなさい。ビジョンに従いなさい。それに従いなさい。そうでないと、何かがあなたを制御するでしょう。何か他のものがあなたを支配するでしょう。
【 第二の項目 】 レースを走る – Run the Race -
今、わたしたちは二つ目のポイントに来ます。これもまた三つの単語です。あなたはこれらを暗記する必要はありません。しかしこれらを覚えるでしょう。レースを走りなさい。レースを走りなさい。これは、ヘブル人への手紙第12章2節です。イエスをひたすら見つめていなさい。今、みんなでイエスを見つめましょう。栄光と尊貴を冠として与えられたイエスをひたすら見つめなさい。彼はわたしたちの信仰の創始者、また完成者です。今、わたしたちの前に置かれているレースを忍耐をもって走りましょう。
最近、ボストンでマラソンがありました。何千人もの人たちが走りました。そして多くの人が2時間、あるいは6時間で完走しました。しかし、それは長いレースではありません。また別の種類のレースがあります。すべての走者には一つの単純なルールがあるだけです。すべての人が24時間走ります。そして、一番遠くまで走った人が勝利します。しかし、それはたったの24時間です。今までに、一週間続くレースを聞いたことがありますか。だれも一週間走り続けることはできません。一ヶ月はどうでしょうか。一ヶ月忍耐をもって走るのはどうでしょうか。一年はどうでしょうか。しかしこのレースはあなたの全生涯続きます。明らかに、これは物理的なレースではありません。
わたしたちはクリスチャン生活がマラソンのレースを走る生活であることを理解する必要があります。そしてそのレースはわたしたちの前に置かれています。言い換えると、あなたがコースを選ぶのではありません。それは神ご自身によってあなたの前に置かれるのです。あなたはそれがどのくらいの長さであるかを決定したり決めたりすることはできません。それもまた神ご自身によって決定されています。すべての信者には個別のレースコースがあります。勝利者たちは行程を走り終えます。それはパウロが最後に言ったことです。「わたしは行程を走り終え」。わたしは救われたときに、天的なレースを走り始め、わたしの心の願いは走り終えることでした。使途行伝第20章で彼は言いました、「わたしは自分の命を尊いとは思いません。尊いこととはわたしが行程を全うすることです」。
妻とわたしは結婚して47年以上になります。そしてわたしたちはいつも一緒にいます。しかし実際、わたしたちの行程は同じではありません。彼女には彼女の行程があり、わたしにはわたしの行程があります。これは神聖なエコノミーの個人的な面です。あなたがた一人一人に走るべき行程があります。歩くための行程ではありません。散策するための行程でもありません。ジョギングするための行程でさえありません。それは走るべき行程です。
今、わたしはこの行程がいかに個人的であるかをあなたがたに印象づけたいと思います。ヨハネによる福音書第21章にとても良い絵があります。主はペテロに彼がどのように人生を終えるか、どのように行程を終えるかについて語りました。彼は実際のところこのように言っていました、「あなたは殉教します。あなたは年老いて死ぬのではありません。病気になって死ぬのでもありません。あなたはわたしの栄光のために殉教するのです」。ペテロがこれを聞いたとき、何と言ったかを思い出してください。「わかりました。わたしは殉教します。ヨハネはどうなのですか? 彼も殉教すべきではないですか? それは公平ではないのはないでしょうか? わたしが殉教するなら、みなも殉教すべきです」。主は言われました、「ペテロよ、それはあなたにはよらないのだ」。イエスがヨハネについてペテロに何と言われたかを思い出してください。「わたしの来るまで彼が生きているのをわたしが望んだとしても、それがあなたにとってどうだというのか?」。「ちょっと待ってください。わたしは殺されるんですよ。それなのに、彼は携え上げられるんですか? わたしはそんなのは嫌です。公平ではありません」。これは公平の問題ではありません。これは実に機能と主の案配の事柄です。
そしてヨハネはこれを聞きました。それから弟子たちはツイートし、メールを送り始めました。彼らは言いました、「ヨハネは死なないで、携え上げられる」。ですからヨハネは言わなければなりません、「主はわたしは死なないと言ったのではありません。彼はもしわたしが来るまで彼が残っているのをわたしが望んだとしても、と言われたのです」。ヨハネの兄弟は早い段階で殺されました。ヨハネは90歳代まで生きました。そして彼は彼の行程を全うしました。
もしわたしたちがビジョンに従うなら、わたしたちは行程を走り終えることに動機づけられるでしょう。しかしあなたが走り続けるために、二つのことが必要です。二つのことプラス一つのことです。まず、あなたはあらゆる妨げとなるものから目をそらすことを学ぶ必要があります。わたしはこの集会で何人かの赤ちゃんを見ました。わたしは赤ちゃんが妨げであるとは言いません。子供たちは主からの賜物です。しかしわたしたちはだれによっても、また何によっても自分自身がそらされることを願いません。
姉妹たちよ、わたしはあなたがたの自己についていくつかアドバイスを与えましょう。それから目をそらしてください。最近、1月に結婚したばかりの夫婦がいます。あなたは彼女を愛してますね? あなたは彼を愛してますね? 互いに目をそらすことを助け合いなさい。目をそらしてイエスをひたすら見つめなさい。そうすれば、彼はあなたに信仰を注入してくださいます。
次に、わたしたちが必要とする二つ目のものは忍耐です。主はヒラデルヒヤに在る召会を彼らの忍耐のゆえに称賛しています。わたしは、可哀想なアメリカ人がこれに関してどうすればよいのかわかりません。わたしが自国の人々を取り上げるのには理由があります。アメリカ人には忍耐がありません。彼らにはまったく忍耐がありません。すべては素早くなければなりません。しかしこの行程では、ほとんど素早くできるものはありません。わたしたちは忍耐を持って走ります。そしてわたしはこれをあなたがたに保証します。わたしは今もなお走っています。わたしはこの先に何があるのかわかりません。わたしは主のあわれみに信頼しています。しかしわたしたちの忍耐としてのキリストを疲れ果てさせることのできるものは何もありません。わたしたちは疲れ果てません。わたしたちは燃え尽きません。わたしたちはわたしたちの忍耐としてキリストを持っています。
わたしは二つのことプラス一つのことがあるといいました。その一つのことはこれです。それは長距離レースです。あなたはこのレースを60年あるいは70年走るかもしれません。もし失敗したらあなたはどうするでしょうか。もし倒れるならあなたはどうすべきでしょうか。ミカ書にわたしの愛する一節があります。それは言います、「わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ暗やみの中に座っても、エホバはわたしの光となられる」(7:8)。ですから、あなたが失敗しても、あなたが倒れても、あなたには神の法理的な贖いがあります。起き上がって再び走り出しなさい。あなたは最初の三つの言葉を覚えていますね、「ビジョンに従う」。二つ目は「レースを走る」です。
わたしはレースについてさらにもう一つ言わなければなりません。あなたが長く走れば走るほど、遠くまで走れば走るほど、ますます走るのが困難になり、ますます行程が険しくなります。しかしあなたがその地点に到達すると、恵みはさらに大きくなります。復活はさらに優勢になります。主のあわれみはさらに遠くまで届きます。ニー兄弟は「最後の道(the last part of the journey」についてのメッセージをしました。弟子たちはボートを漕いでいました。彼らは旅の終わりに近づいていました。そして風は非常に強く吹いていました。彼らは終わりに近づいていました。しかし、それが主が来られた時です。ですから、物事が激しくなっても驚かないでください。恐れてはいけません。恵みが増し加わるでしょう。供給はさらに豊かになるでしょう。主はわたしたちの先駆者です。彼はわたしたちの先にレースを走られました。彼は至聖所の中でわたしたちのために祈っておられます。ヘブル人への手紙第12章よりわたしたちは知っていますが、御使いたちがわたしたちを見守っています。あなたの御使いはあなたを励ましているかもしれません。ビジョンに従いなさい。レースを走りなさい。
【 第三の項目 】 主に生きる – Live to the Lord -
今、三つ目のポイントに来ます。今回は四つの単語です。わたしたちは三つから四つになりました。わたしは物事がもっと難しくなると言いましたね。
主に生きる。コリント人への第二の手紙第5章15節でパウロは言います、「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに押し迫っているからです。そこでこう判断しました。ひとりの方がすべての人のために死なれたからには、すべての人が死んだのです。それは生きている者が、もはや自分自身にではなく、彼らのために死んで復活させられた方に生きるためです」。
ここの「主に生きる」という表現は普通ではありません。わたしが「主のために生きる」というなら、あなたはわかるでしょう。「主と共に生きる」、これも理解できます。「主の中で生きる」ことも理解できます。「主によって生きる」、これもそれほど理解するのは難しくありません。しかし「主に生きる」とはどういう意味でしょうか?
パウロはこれについてローマ人への手紙第14章で語っています。召会生活についての文書の中で彼はこう言っています、「わたしたちのうちだれも、自分自身に生きるものはなく、自分自身に死ぬ者はいないからです。わたしたちは生きるにしても、主に生きるのであり、死ぬにしても、主に死ぬのです。こういうわけで、わたしたちは生きるにしても死ぬにしても、主のものです」(7-8節)。今、あなたがたの何人かは全時間で奉仕しています。そして何人かはいわゆる普通の仕事をしています。何人かは家で全時間の母親です。わたしたちは全時間で奉仕している人たちだけが全時間奉仕者であると考えるべきではありません。全時間で奉仕している人たちはもしかすると全時間で奉仕していないかもしれません。また全時間で奉仕していない人たちは全時間で奉仕しているかもしれません。あなたはこのように言うかもしれません、「兄弟、二人の子供をもつ若い母親が全時間であり、旅をしている同労者が全時間ではないかもしれないという意味ですか?」。それがわたしの言いたいことです。なぜなら、リー兄弟はこのことについてわたしたちに開いてくださったからです。全時間で主に仕え、主のために全時間になるということの内在的な意義とは何でしょうか?
それでは、わたしに質問させてください。あなたは全時間で何をしていますか。あなたが全時間で行なう一つのこととは何でしょうか。あなたは生きています。あなたはあなたの全生涯において全時間で生きています。全時間になるとは、主「に」生きることです。自分自身「に」生きることではありません。今、「~に生きる」とは何を意味するのかを理解してみましょう。あなた自身「に」生きることは、自分の指示の下で生きることであり、自分で立てた目標に向かって生きることです。若い成人した兄弟姉妹の何人かは、彼らの親「に」生きているかもしれません。両親は言うかもしれません、「わたしたちはあなたに会計士になってもらいたい」。「でもお母さん、お父さん、わたしは音楽が好きです。わたしは音楽を勉強したいのです」。「いいえ、あなたは会計士になる勉強をしなければなりません。あなたのためのわたしたちの目標はこれです」。これは両親に生きることです。
自分自身に生きることは、わたしたちが自分で自分の人生の方向性を定めることです。またわたしたちがその目標を設定します。すべての堕落した人は自分自身に生きます。しかし、ひとりの方、わたしたちの主がわたしたちのために死なれました。それは、わたしたちの人生の中に「もはや~ない(no longer)」があるようになるためです。彼がすべてのために死なれたのは、生きている者がもはや自分自身に生きることがないためです。
アナハイムには、おそらく320人の訓練生がいます。来月、100人以上が卒業します。しかし将来、わたしたちは二種類の結果を見るでしょう。何人かにおいては、彼らの心の中に「もはや~ない(no longer)」があります。わたしはもはや自分自身に生きません。わたしはかつて自分自身に生きていました。しかし、それは姉妹が結婚する時のようです。彼女は自分自身に生きることはできません。彼女は今や自分の夫に生きなければなりません。また別の訓練生たちの中には「もはや~ない」がありません。今から十年後あるいは二十年後、わたしたちは何が起こるかわかりません。あなたの中に「もはや~ない」がある必要があります。わたしはもはや自分自身に生きません。わたしは日本に生きません。わたしはお金に生きません。わたしは主に生きます。それは、わたしが彼の管理の下におり、彼が目標を設定していることを意味します。
これがレースを走ることとどのように関係しているかを見ましたか。彼が行程を定められます。彼が方向を定められます。彼はいつ終わりが来るかをご存知です。彼は目標が何であるかを知っておられます。そして今わたしたちは彼に生きます。ですから、わたしたちはもはや自分自身の行程を定めません。わたしたちはひたすら彼を見つめます。これが彼に生きることです。「主よ、ここでわたしはこの状況にいます。わたしはあなたに生きます。今日、わたしはどのようであればよいでしょうか? 集会で何を言えばよいでしょうか? あなたが判断してください。そこでパウロは言います、「彼らはもはや自分自身に生きるのではなく、彼らのために死んで復活させられた方に生きるのです」。彼は復活させられました。ですから、キリスト、すなわちわたしたちがその中で、またそれに生きているキリストは、復活されたキリストです。彼は復活の命です。彼はわたしたちの中にその霊として住んでおられます。彼に生きるとはその霊に生きることです。なぜなら主はその霊であるからです。
わたしはあなたがたがこれらの三つのポイントを暗記したとは思いませんが、あなたがたがそれを覚えているだろうと信じます。ビジョンに従いなさい。このビジョンはあなたの魂の命を切り分けるでしょう。ヨセフの生涯を見てみなさい。ビジョンは決して成就しないかのようでした。しかしそれが神がビジョンを成就する道でした。あなたの内でビジョンに統治させなさい。ビジョンにあなたを支配させなさい。あなたを制御させなさい。あなたを方向付けさせなさい。
二週間後には、天のビジョンについての特別集会があります。ビジョンに従いなさい。レースを走りなさい。レースはあなたがたの前に置かれています。走り続けなさい。あなたは27歳かもしれません。走りなさい。34歳になっても、走りなさい。41歳になっても、走りなさい。58歳になっても、走りなさい。66歳になっても、走りなさい。74歳になっても、走りなさい。82歳になっても、走りなさい。99歳になっても、走りなさい。あなたが走り終えるまで走りなさい。あなたの走ることを彼に生きることとしなさい。もはや自分自身に生きるのではありません。彼に生きなさい。ビジョンに従いなさい。レースを走りなさい。主に生きなさい。
どうか主がわたしたちを祝福し、わたしたちが主にお会いするまでこの道を生きることができますように。
Q & A (質疑応答)
質問:子どもを育てるときに何が一番大切だと思いますか?
答え:わたしが最も尊んでいることは、子供たちと色々な事をするときに、主の中で行なうことです。ですから、子供たちがどの成長段階にいても、わたしが彼らと共にいるときに、もしわたしが主と一であるなら、その時を尊びます。こどもたちもそれを尊んでくれました。でも、わたしが主と一でなかったときのことは、あまり思い出したくない時です。あなたが眠れない夜は何度もあるでしょう。あなたが緊急治療室にいるときもあるかもしれません。子供たちが幼稚園に行くとき、あなたは緊張することでしょう。でも、主と一になること、また彼に生きることを覚えておいてください。あなたが主に生きるなら、子供たちははぐくむ愛の雰囲気の中にいることができるでしょう。
また、これはおもに人間的な事を行うことと関係があります。わたしは自分の子供たちをキャンプに連れて行くとき、高嶺の真理について語ることはできません。しかし、後になって、彼らにそうすることができました。
質問:わたしは在職です。仕事の中で主を経験し享受するためには、朝ごとをして勝利を得る必要があると聞きましたが、実際的に仕事の中で、兄弟はどのように主を享受していますか?
答え:わたしたちの主イエスが全時間奉仕をしたのは、三年半だけでした。主は幼いときから30歳になるまで、大工として働きました。彼には少なくとも6人から7人の兄弟姉妹がいました。彼は貧しい中で生活しました。しかし、彼が大工として働いていたとき、彼は御父のゆえに生きていました。ですから、わたしたちの中に生きている主は、どのようにしたらこのように生きれるかを知っています。主には自分の寝室があったと思いますか? 自分のパソコンを持っていたと思いますか? 彼はこのような状況の中でどのように生きるかを知っています。今、彼はその霊としてわたしたちの中におられます。神・人の生活を再び生きることを待ち望んでいます。そして、わたしたちの側では、少しずついくつかの事を学ぶ必要があります。
第一に、毎日、わたしたちは主から恵みを受ける必要があります。わたしたちは彼のゆえに生きます。ですから、わたしたちは彼を食べ、彼を飲み、彼を吸い込み、真の復興を持つ必要があります。そして、毎日、恵みを求めて祈ります。わたしたちはこの事を朝に認識すべきです。すなわち、わたしたちは命の恵みとしての主がいなければ、生きることができないことを認識すべきです。
今、仕事をすることに関して、あなたが直ちに行なえることがあります。そして、もう一つのことは、あなたは最終的に行なうことです。直ちに、あなたはこのように祈ることができます、「主よ、わたしは今働いています。わたしは自分の仕事において忠信でなければなりません。わたしは自分のしていることに集中する必要があります。主よ、わたしと一であってください。わたしの中で生きてください。わたしの中で働いている方となってください。わたしの中で生きてください、それはわたしが働いているときにあなたを生きるためです」。
しかし、最終的に、あなたは何か別のことを経験するでしょう。今はまだあなたの魂と霊は切り離されていません。ですから、あなたの霊はあなたの魂の内側にあります。働いたり勉強するために、あなたは魂を使わなければなりません。しかし、あなたが魂を使うとき、霊の意識を失ってしまいます。しかし、お昼休みになるとき、あなたは魂と霊を使って御言葉を読んだり、務めの書物を読むことができます。それから、仕事に戻ります。それから、あなたは主のことを5時間考えないかもしれません。これはすべての人の経験です。しかし、最終的に、主はあなたの魂と霊を切り離すでしょう。その時、あなたの霊は魂の中に閉じ込められなくなるでしょう。外側では、働いていますが、内側では主と交わりをしているようになります。
今、わたしは本質的に同じ質問をリー兄弟にしたことがあります。わたしは、「リー兄弟、わたしは高校で先生をしています。そこにいるのは大部分が難しい生徒たちです。わたしが教えているときにどうしたら主と一であることができるでしょうか?」。そうしたら、彼はこのように答えました、「外側では、あなたは教えていますが、内側では、それは『おお、主、アーメン、ハレルヤ』です」。これがリー兄弟が言ったことです。彼が語っていたとき、その霊はわたしに語りかけて言いました、「あなたは、魂と霊が切り離される必要がある」。ですから、あなたが集中して働いていて、数時間後、「わたしは主に集中していなかった」と気づいても、宗教的になって自分を打ち叩かないでください。あなたは内側の状況を理解する必要があります。しかし、あなたは毎朝、恵みを受けることが出来ます。そして、あなたは自分が働いているときに主に内側に生きてくださいと祈ることができます。
いま、わたしはあなたを怖がらせたくはありません。これは実は、グッドニュースなのですが、姉妹たちはこのグッドニュースを聞くとき、おびえます。いいですね、わたしたちはみなヤコブですよね? そうですよね? 創世記第32章でヤコブに何が起こりましたか? 彼は砕かれました。ですから、ある日、あなたの外なる人は砕かれるでしょう。それは大いなる日となります。その時、あなたの霊は流れるでしょう。そうすれば、あなたは外側で働いていても、内側では「主イエスよ、あなたを愛します」となります。
夏の訓練のメッセージ2は、ヤコブが砕かれることを取り扱います。あなたが怖がるなら、そのメッセージの間、家にとどまっていても構いません。しかし、最終的に、あなたはそれを恐れなくなるでしょう。むしろ、あなたは古くなることや依然として完全に自己の中にいることを恐れるべきです。砕かれることについて心配しないでください。そのために祈る必要はありません。ただイエスの中で喜んでいてください。
質問:日本にいるときはルーティンな生活なのですが、海外に出張などで行くとき、主を追い求めるのが難しいです。あまり聖徒たちとも会えませんし、ルーティンな生活ではないからです。兄弟は、旅行しているとき、どのように追い求める心を保っているのですか?
答え:わたしたちの人生には、たしかに多くのルーティンがあります。時にはルーティンはある程度霊的なエクササイズを助けてくれます。しかし、ルーティンは物事を古びさせることもします。ですから、わたしたちは命の経験に関して理解する必要があります。ルーティンな日々を送っているときも、この1月と2月にしたように世界中を旅しているときも、基本的な命のエクササイズは変わりません。わたしが家にいるとき、わたしは呼吸する必要があります。飛行機に乗っているときも呼吸する必要があります。今年18個目のベッドで寝ているときも、呼吸する必要があります。ですから、命の実行は継続的なのです。それは絶え間ないものです。そうでなければ、それは命ではありません。わたしたちがみな呼吸しているように、またわたしたちの心が脈を打っているようにです。あなたはそれはルーティンであるとは言わないでしょう。それは有機的に一貫しています。ですから、あなたはどこにいてもこのことに内在的に触れる必要があるのです。11月にアメリカの北西部でわたしは特別集会を持ちました。主は命の恵みでした。それから、わたしは家に戻ってルーティンな仕事を行ないました。主は命の恵みでした。それから、金曜日の朝早く、わたしの妻は言いました、「あなたは気絶して、床に倒れていたのよ。そして、あなたは10分間も意識がなかったのよ」。妻は対応してくれましたが、わたしは何も覚えていません。それから、お医者さんの兄弟が救急車を呼んでくれました。彼らはわたしを病院に連れて行き、隔離室に入れました。しかし、内側には何の変化もありませんでした。わたしはなおも呼吸していました。言い換えると、依然として主を呼吸していたのです。それは問題ありません。命は環境がどうであれ継続します。ですから、パウロのように環は満ち足りることを学びます。ですから、わたしは昨晩ホテルに着きました。岸田兄弟が何を食べたいですかと聞いてきました。わたしは「日本食、さしみがいいです。タコはできればなしで」と答えました。そして、今晩の食事は何か別のものでしょう。しかし、パウロは「わたしは満ち足りることを学んだ」と言いました。これはあなたにショックを与えるかもしれませんが、非常に実際的な意味で、外側のものはどれも問題ではありません。それはわたしたちの魂に影響を与えるかもしれませんが、霊には影響は与えません。このことに関して他に三つの事柄があります。
それらのうちの一つは、わたしたちが自分の三部分からなる存在全体を顧みる必要があることです。すなわち、体、魂、霊を顧みる必要があります。わたしたちは健康な食事をし、運動し、休息を取る必要があります。それから、わたしたちにはすべてに適合する命があることを認識する必要があります。わたしたちの内側に絶えず流れているこの命は、どのような状況にも適合することができます。ですから、わたしたちは異なる環境にいても、キリストであるこの命はそれを知っています。ですから、直ちに、その命はその状況の中で生き、わたしたちに供給します。ですから、わたしは緊急治療室にいたとき、ある意味で、何か特別な事のために祈る必要はありませんでした。わたしはただ主と一になれば、その命は何をすべきかを知っています。それから、もう一つの事は、わたしたちは最終的に、真にからだの中で生きることを知ります。旅行する同労者たちが今していることをすることができるのは、姉妹たちが祈っているからです。兄弟たちも祈りますが、特に姉妹たちがこの分を持っています。彼女たちの祈りがなければ、わたしは生きることができません。彼女たちの祈りが、からだの供給を解き放ちます。言っておきますが、英雄的なものは何もありません。キリストのからだには英雄はいません。キリストのからだには肢体がいるだけです。
質問:弱くなってしまった訓練卒業生をどのように顧みたらいいですか?
答え:ある人は弱くなります。ある人はもともといつも弱い人です。パウロはローマ第15章で何と言っていますか? 「強い人は弱い人を顧みるべきであって、自分を喜ばせるべきではありません」。ですから、わたしたちは彼らを愛し、はぐくみ、養い、彼らと共に主を享受します。しかし、これですべてではありません。わたしたちは自己を養うことなくこのことを行なう必要があります。今、アナハイムで第四期生である兄弟がいます。彼は非常に優しい心を持つ若い兄弟ですが、小心な者です。パウロはこのことをテサロニケ人への手紙第5章で語っています、「小心な者を慰めなさい」。ですから、一方で、わたしたちは彼を慰める必要があります。わたしは彼が優しい心を持っていると言いました。ですので、彼はいつも恋に落ちますが、あまり賢い方法においてではありません。彼は何か悪いことをするわけではありませんが、自らを苦しめるのです。ですから、一方でわたしたちは彼を慰める必要があります。もう一方で、わたしたちは、自分が強くても弱くても自己を否まなければならないことを彼が見るように助ける必要があります。弱さは事実であるかもしれません。弱い状態にあるかもしれません。しかし、それは決して言い訳の理由にはなりません。決して肉の中にいてもよい言い訳の理由はありません。
「主よ、疲れました」と言うかも知れません。それは正しいです。「主よ、体調が悪いです」それも正しいです。しかし、それらの事はあなたが自己や肉の中にいてもよいという資格をあなたに与えることはありません。あなたはそうであっても主を吸い込むことができ、その霊を飲むことができるのです。
今、わたしたちは弱い人を顧みるとき、二つのことに気をつけなければなりません。このことはわたしたちが人を牧養することにも当てはまります。まず、人そのものを顧みてください。それから、問題を顧みてください。実際、わたしたちはどんな問題も解決できないのです。自分の問題すら解決できません。ですから、わたしたちは人を顧みるのです。
もう一つの事柄は、わたしたちはこれらの人たちを顧みているときに、この必要で圧倒されないようにすべきです。わたしたちはこの事がわたしたちをそらして、神のエコノミーを積極的に遂行できなくするようにさせるべきではありません。